妄想癖 [誰のためのデザイン?]

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)


すみません、基本を押さえにかかった訳ではないのですが、今日はふと、この本に関してコメントしたくなりました。

ボクは常に何かを目にするたびに「なんでこうなったのだろう?」とその理由を妄想するのが大好きです。デザインに携わる人の心得だ、などと言うつもりでは決してないのですが、ボクが現在こうしてそれ系(?)の仕事をしているのも、この「なんでだ?」が大きく関係しているように思うのです。

過去にもそのようなことを書いていますが、人が関わって何かが生み出されたとき、そこには必ず理由があります。それを出来た結果=形態=デザインから推測するのがボクの癖なのです。

例えば、通勤電車のドアの上部にあるカギ穴です(最近の電車にあるかどうかは分かりませんが、少なくともつい最近新型車両が導入され旧式となった中央線には必ずそれがあります)。

まず、なぜ車掌室から一括で管理され自動で開閉する電車のドアに「カギ」が必要なのか?しかもその位置は以上に高く、身長184cmのボクの目の位置とほぼ同じ高さです。
また、カギ穴は完全に外に抜けており、覗き込むとそこから景色が見えます。ドアを施錠するためのものとは到底思えないような、とってもシンプルないわゆる「穴」なのです。前方後円墳状のその形からカギ穴と判断してしまうだけで実は違う意図があるのかも...とつい色々考えを巡らせてしまうのです。

こういった「身近な、なぞ」についてはいくつかのパターンを見いだす事ができます。

A. そのようにする何か強烈な意図や意思がそこにある
B. あまり考えずにやったらそうなった
C. 本当はそうしたくないんだけどやむなくそうせざるを得ない理由があって

で、ボクはこの中央線のカギ穴については、C. ではないかとふんでいます。
というのも、何年前からかこのカギ穴にシールが貼られ外が覗けなくなってしまったからです。

これは「ここから外を見るな」という意思表示です。また、穴に何か(カギ?)を通すということが少なくとも電車を運転している最中には必要ないということも示しています。


ボクの推理はこうです。


このカギ穴は、その昔ドアの開閉が自動でなかったころの名残で、ドアが自動になってからもそのドアの部材を供給するサプライヤーが「仕様」として、あるいは一種の装飾・おまじないみたいなものとして納品し続けた。


...たぶん、違います。(怒りました?)

何が言いたいかというと、こうした妄想(ボクはこのサプライヤーの営業トークや納品時のひともんちゃくなどにも想いを馳せたりします)が、自分でデザインをするうえでの引き出しになっているのではないかということなのです。

まま妄想の是非はともかく...

誰のためのデザイン? 認知科学者のデザイン原論は、間違いなく名著です。デザイン周辺にいる方は一度は読んだ、あるいは誰かに読めと言われたことがあるのではないでしょうか?

ここに書かれていることを乱暴にボクなりの解釈で言ってしまえば、
「この妄想こそがデザインの源泉であり、つい人はその妄想を忘れてモノを作ってしまう」
のだと思います。

ただそこは認知科学と言うだけあり(やや)科学的な説明がなされています。
残念(?)ながら筆者のD.A.ノーマン氏は純然たるデザイナーではありませんが、


だからいいんじゃん。
そんな本です。


詳しく知りたい方はこちらからどうぞ→誰のためのデザイン? 認知科学者のデザイン原論